尾田悟 

人と音楽

私と尾田悟の音楽の出合を簡単に書こうとしたのですが、文才のなさでだらだらと長くなってしまいましたので何回かに分けて書いていきますので御笑読下さい。


  その1 出合い
 その2 日本から世界へ
 その3 新たな出発
 青字にはリンクが張ってあります。クリックしてご覧ください

その1 出合い

尾田悟(別名 日本のレスター・ヤング。。。大橋巨泉命名)
 1927年9月27日福岡生まれ1943年海軍軍楽隊入隊
 この時期のことが東京新聞ニュース1998年7月30日で掲載されています。こちらでどうぞ。
 戦後のジャズブームの中で、東京ジャイブやレイモンド・コンデのゲイセプテットで活躍する。以来、ジャズ一筋で歩む。
 1985年にモンタレージャズフェスティバルに出演し、以来、米国や欧州なでも演奏活動をおこない、海外でも高い評価を受けている。
 近年はハンク・ジョーンズと結成したグレートジャズカルテットでも活躍する。このグループでの録音「サトリズム」がスイングジャーナル誌選定ゴールドディスクに選出される。
 1996年には日本のジャズに貢献した者に贈られる、スイングジャーナル誌主催南里文雄賞を受賞した。現在も都内のジャズクラブを中心に積極的な演奏活動を行うと共に、若手の育成にもつとめている。
 




「酒とバラの日々」尾田悟著 エフエー出版より、一部引用
 
このように、尾田悟は戦後の進駐軍が持ち込んだジャズブームから現在まで一貫してジャズの第一戦で活躍している最ベテランの一人であることは皆さんご存じの通りです。
 私は1970年代から尾田悟の音楽を聴き始めたわけで、第一次のジャズ黄金時代は全く知リません。そのころの逸話にお札を荒縄で縛ったなんて豪快で景気のいい話も。
 なぜ、私が尾田悟を聞き始めることになったのか。
 当時私はコルトレーンとマイルスを出発点としてジャズファンとなり、徐々にジャンルを広げて、左は欧州のニュージャズ、右はバードからカンサスシティのジャズと聞き広げていく中で、難関に当たったのが、プリバードといいますか、チャーリー・パーカー以前のジャズが理解できず、聞いていておもしろくなかったのです。特にレスター・ヤングとベイシーが。
 当時入り浸っていたジャズ喫茶「モウブ」のマスターから、レスター・ヤングの勉強ならレコードもいいけど、日本のレスター・ヤングを聞いてみたらと、代々木の駅前の教会の地下で(モウブはそこにあった)導きを得たのです。
「自由が丘のファイブスポットのハウスバンドで尾田悟が出てるよ。いっぺん聞いてみてよ。それにファイブスポットなら値段も高くないから大丈夫だよ。」なんて云われて、それじゃーと生まれて初めて、浪人学生のバイト代を握りしめてジャズクラブに出かけたのでした。そのときはいわゆるスイングジャズなんて全然聞いたことがありませんでした。生演奏は外国人演奏家のコンサートとピットインのライブで日本の若手のハードな演奏ばかりでした。
 初めて、入ったジャズクラブ・自由が丘ファイブスポットは二階席もある想像以上に広く豪華な空間に驚きました。フロアーではハウスバンドの尾田悟カルテットが演奏していました。
 それが今から25年前の私と尾田悟の音楽の出合いです。後から、本人から聞いたのですが、当時の尾田悟はジャズの第2の出発ともいえる時期でした。戦後のジャズ黄金時代も昭和30年代中頃からおかしくなり、ロカビリーなどに天下をとられ、尾田悟も演奏機会が減っていったのでした。ところが幸か不幸か当時発展しつつあったレコード業界から今でいうムード音楽というか、歌謡曲や映画音楽の録音の声がかかるのです。当然といいますか、何故、尾田悟かといえば、そのスムースネスな音色とフレージングと楽譜に強いことがムード音楽にぴったりだったのです。本人は相当悩んだすえに録音活動に入ったそうですが、当時のジャーナリズムからジャズを捨てたと酷評されたそうです。そんな時期を経て、再度ジャズの最前線で活躍を行っていたのがファイブスポットだったのです。




ある日のスポットでのセッション、遊びに来たギルド・マホーニーと尾田悟(ts)





 まさしく日本のレスター・ヤングといわれるだけあって、レスター・ヤング(愛称 プレス)の曲や30年代の小唄・端唄などやブルースといったまさに渋い演奏曲目とその職人ぜんとしたステージマナーが印象的でした。ただ、演奏曲目はそうでも、決して、レスター・ヤングの単なるコピーではない独自のサウンドにはすぐに気がつきました。
 その日から私は、レスター・ヤングの理解の手引きというよりはワンアンドオンリーの尾田悟のサウンドに魅せられて行ったのでした。家ではコルトレーンやドルフィー、ジャズ喫茶ではハードバップ、そしてそれらに対する清涼剤として、尾田悟サウンドが見いだせたのでした。




 
 当時の代表的録音です。
尾田悟ライブアット・ニュー5スポット
(マスタフォンジャズシリーズ・東宝 YX-6103)
MARCH .27.1976 AT NEW 5SPOT 自由が丘
尾田悟(T)、増田一郎(V)、根本慶子(P)、潮崎郁男(G)、原田政長(B)五十嵐武要(D)他

1.BLUE LESTER
2.EXACTLY LIKE YOU
3.THESE FOOLISH THINGS
4.I CAN'T GIVE YOUANYTHING BUT LOVE
5.I REMEMBER PREZ
6.SMOKE GETS IN YOUR EYES
7.LESTER LEAPS IN
8.FIVE SPOT AFTER DARK
 当時の印象から。

 まず、当時の尾田悟の音楽についてです。職人ぜんとした淡々とした演奏が印象的でしたが、その背景にあったのが、意に添わないムード音楽の仕事から脱却し、商売などの外的要因からでなく、自分自身のために自分の人生をかけた音楽・ジャズを演奏するといった内的必然性があったと考えています。
 音楽はそうした動機付けにまさに合致したもので、外面的というよりは内省的で、表面上の効果よりは、余分な音は出さない抑制された常に美しいサウンドをめざすものでした。70年代のジャズシーンの流行とはまさに逆行していました。
 当時の私はといえば、コルトレーンからフリージャズまで聞いていたいたわけで、スイングジャズなど受け入れる素養などなかったのに、尾田悟の音楽に一度で魅入られたのでした。今考えれば、私が当時、もっとも重きをおいていた音楽、コルトレーンの後期の録音、エクスプレッションズや惑星空間の内省と抑制の音楽と共通した印象めいたものがありましたね。
 スイングジャズという言葉がイメージさせる、明るく愉しくイージーゴーイングで、単調なフレーズ、やたらと明るい観客のかけ声といったものから尾田悟の音楽はかけ離れていました。決して大声でわめき立てたり、下品な声をだしたりしませんが、そのつむぎ出すサウンドはきわめて刺激的でした。
 当時の印象でもう一つ大きかったのは、このようなジャズはまるで存在してない者として、メディアに扱われていたことがあります。当時のメディアは(現在でもそうですが)、尾田悟のようなベテランジャズマン達をほとんど黙殺同然の扱いをしており、私達、雑誌やレコード、ジャズ喫茶でジャズを聞く者には全くその情報が伝わりませんでした。
 私の当時の印象では渡辺貞夫以前の日本のジャズは存在しないも同然だったのです。だから、私も当時のベテラン達の音楽は中年以上のおじさん達の酒飲みのためのバックグランウンドミュージックという先入観がありました。こうした印象を尾田悟の音楽は一挙にうち破ってしまいました。そこにはイージーゴーイングどころか求道的といってもいい音楽が展開されていました。
 
 ファイブスポットの話に戻ります。スポットは評論家のイソノテルヲ氏の店であり、同じビルには系列の中華料理点が位置していました。これをイソノ氏は大いに利用し、来日中のミュージシャンのライブがはねた後、中華料理をエサに自由が丘まで引き連れてきたのでした。当然、尾田悟もビル・エバンス、オスカー・ピーターソンやソニー・スティットといった大物と共演するチャンスを得たのでした。




マーク・ジョンソン(b)、ヘレン・キーン(エバンスの有名なマネージャー)、いそのてるお(評論家・自由が丘ニューファイブスポットの店主)、ビル・エバンス(p)、尾田悟(ts)



 当時の尾田悟はスティットにさかんに感心していました。又、当時のスポットには、ブルーコーツも出演しており、私は生演奏でのビッグバンドの演奏にも目覚めたのでした。ビッグバンドだけは、生とライブで大きな格差があり、生演奏でなければ、あのハーモニー感とスイング感は感じられないんでよね。
 そんなこんなでファイブスポットに通うことになったのですが、私が大学を卒業し就職し何年もしないうちに閉店となってしまいました。ついにファイブスポットの店内では尾田悟とも一言も言葉を交わすことなく終わりました。
 
 もう一つの出合
 ファイブスポットの閉店から一月もたたないころ、私の職場での会合で、同僚から、別の課の人(kさん)でやはり、熱心なジャズファンがいるよと云われたのでした。何日かあとに、kさんと仕事の打合わせの電話をした後、ジャズの話をしてみると、なんと、私と同じ時期にずっとファイブスポットに通っており、尾田悟のファンだと言うではないですか。それから、kさんは現在まで私のもっとも親しいジャズを共通の趣味とする友人となったのです。kさんからファイブスポット亡きあとの尾田悟の出演先の情報を得て、再度尾田悟の演奏に接するようになるまで大して時間はかかりませんでした。
 六本木バードランド、綱島の小さなライブハウス、新橋ジャンク、新宿(店名は失念)、六本木のスターダスト、銀座のサイセリアなどいろいろな店に通いました。私はその間、もちろん中古レコードアサリもつづけていました。また、桜木町のエアジンにも良く通っていました。当時は渡辺文夫グループ(小杉敏b、粉川tb、榎本ts、太田寛二p)が最盛期で、すばらしいハードバップが聴けたものでした。kさんに六本木バードランドだったかな?で初めて尾田悟に紹介されたのでした。それから、たまに、演奏の合間に私達のテーブルで水割り片手でジャズ談義などもしばしば。尾田さんにとっては私のコルトレーン好きは理解を超えることのようですが。
 当時よく話したのが、私の夢だった尾田悟とテディー・ウイルソンの共演でした。テディー・ウイルソンは当時たびたび来日し北村英治などと共演し録音なども行っていたのでした。ご存じの通り、テディーはべニー・グッドマンのバンドのピアニストとして高名なスイング派の巨匠です。




 そのサウンドの美しさジャズ界随一で、尾田悟とはもっとも相性がよさそうなピアニストであり、この共演が実現できたら最高なのにと思っていました。しかし、尾田悟もそんなことは実現しそうにないと話していました。
 もうひとつは米国遠征の話です。これは複雑な問題です。相手は戦中世代の尾田悟にとっては鬼畜米英にして、しかし、ジャズの母国でいつかは、いかねばという気持ちと、言葉の壁の問題や自分が通用するかという不安が尾田悟にはあったのでした。 こうしたなかで、まず尾田はジャンクで北村グループの一員としてテディー・ウイルソンと共演する機会を得たのでした。そして、たった一夜の共演でテディー・ウイルソンの目に(耳に)とまり、その翌年(だったかな?)にはついにレコーディングの話も生まれたのです。





ALL OF ME SATORU WITH TEDDY
(ロブスター LDC-1036 DIRECT TO DISC)
AT PIONEER SUTDIO,TOKYO.ON 8 DEC.1982

ALL OF ME
THESE FOOLISH THINGS
SOMETIMES I'M HAPPY
LESTER TALK
ON THE SUNNYSIDE OF THE STREET
OH LADY BE GOOD
IF I HAD YOU
PENNIES FROM HEAVEN,
BLUES FOR T&S

SATORTU ODA(T),TEDDY WILSON(P),YUKIO IKEZAWA(B),TSUYOSHI WATANBE(DS)

当時はやったダイレクトツーディスクで高音質が売り物のレコードです。
 何しろ、テディーと尾田悟の美しいサウンドがとられています。ここでの尾田悟の演奏はテディーを驚嘆させる事になったのです。
 さらに、その後、尾田悟からもう一度テディーと録音するからスタジオに遊びに来ないか?ついでに通訳もたのむよといわれ、Kさんといさんで出かけたのでした。場所は高田馬場ビッグボックス ビクタースタジオでした。
 私達が驚いたのは、録音の風景をミキシングコンソールごしに眺められると思っていたら、尾田悟にスタジオ内に招き入れられ、そのままスタジオ内でこの貴重な録音に立ち会おうことになったのです。これをチャンスと尾田さんにはプレスとテディーの共演で名高いバーブの録音から名曲LOVE ME OR LEAVE ME の演奏をお願いしたのですが、テディーは全く記憶にないとのことで、なんだかんだと説明に要したあげく、尾田悟がイントロを演奏してようやく録音が始まったのでした。
 度肝を抜かれたのが間近に聞くテディのピアノの美しさ、絶品としかいいようがないサウンドでした。美しく一音一音磨き抜かれた玉のようなクールな音色には驚きました。録音中は盛んにテディが何か訴えてきますが、よく言っていることの意味が分かりません。二度言われてようやく分りました。尾田にこんな穏やかな(ノーブル?)な演奏でいいのか?もっと、激しく?やったほうがいいんじゃないのか。無論これを尾田悟に伝えるとにやって笑って、それがいいんだと言ってくれ。テディーも大きく頷いて笑っています。この日の録音は最高で、ロブスターのレコードよりも一層美しく愉しい演奏でした。しかし、なぜか、この録音はお蔵入りとなって、現在も日の目を見ていません。テディーが亡くなったときに追悼盤で出ないかなと思ったのですが、そのときは、菅野沖彦氏録音の諸作なども殆ど復活されませんでした。いつか、この録音が日の目を見ることを祈っています。
 私はこのテディー・ウイルソンとの共演が尾田悟にとって大きなターニングポイントとなったと考えます。
 テディー・ウイルソンという巨人が自分の音楽と共通のアプローチであり、同じ音楽観を共有していたこと、そして何より、テディー・ウイルソンが自分の音楽を大きく評価してくれたこと。これが尾田悟にとって大きな自信と財産となり、海外遠征へのきっかけともなり、その後の音楽生活を変えていったのでした。

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